「私に歌を教えて下さい」
開店前のノレサ亭で、アキがこう言って頭を下げたのはほんの数日前のこと。そんなアキが、今は照らされたステージの真ん中でスタンドマイクと共に立っている。ライトの眩しさで、周りに観客がいることがわからないのは好都合だった。マイクに手を当て、長い袖を揺らす。昔うちで働いていた子が置いていった衣装だよ、とチナキが貸してくれた衣装はアキには縁のない高価なもので気遅れしたが、鏡を見ると胸が高鳴った。それを見たチナキが本気になって、髪だ、化粧だとされるがままになっていると、あっという間に時間がきた。
どんなに意気込もうと、アキがプロの歌姫たちにかなうことはない。気持ちだけ人一倍こめてアキは歌った。チナキの歌の中で、ウキツが特に好きな曲だと聞いている。
チナキに相談を持ちかけた時、初めはなんて突飛な事を言い出すのだと目を丸くされたが、物を送ったらそんな事に金をかける余裕なんてないだろうと怒られそうだし、見かけによらず歌を聴くのが好きだと知って、これしかないと思ったのだと説明
したらわかってもらえた。
終わって少しすると、拍手を送られている事に気がついた。マイクにあてた指を震わせながら頭を下げる。顔は真っ赤になって熱い。まだ客の少ない時間だったが、あちらこちらからこっちの席にきて、と言う声が飛んでくる。アキの手を引こうとする客が現れ、何かがそれを遮った。ドン、と言う何かのぶつかる音がマイクから響き、アキはマイクごとウキツに包まれていたのだ。
「ばか」
耳元に届いた声にドキリとしながら、ばかってなんですか!と言うと、なぜかアキの声だけが反響する。マイクのせいだった。
「いきなりこんな事するから驚くだろ。……でも、最高だ」
少し期待していた通りの、しかし想像よりもずっと穏やかな反応に、緊張とは違う色で頬を染める。ウキツはアキの腕をぐいと引いて、ステージから下ろした。席に戻る途中、ウキツはチナキに一言二言声をかける。
「姉御も歌ってくれんだろ?」 「はいはい。どうせ真面目に聴かないのはわかってるさね」
チナキが歌いだすと、アキに注がれていた視線がチナキへ流れて行った。やっと注目も薄れ、ウキツはドスンと腰をおとす。アキの肩を抱いて、反対の手で酒をあおった。
「あの、ウキツさん」 「ん?」 「今の、一応お誕生日のお祝いなんですけど……」 「ああ」
ニヤつくウキツに、そんなにもだめだったのか、とアキが肩を落としうつむく。
「やっぱり、下手でしたね」 「歌姫と比べりゃな。ま、いいだろ。俺が喜んでるんだから」 「……本当に喜んでますか?」
嘘をついているようにも見えなかったが、にわかには信じられず、問い直す。
真剣に問うアキに、ウキツはいつものようなひねくれた答え方ではなく、アキを優しくなだめるように言った。
「喜んでる。なあ。アキ、なんか今日……」
綺麗だな、と呟いたウキツの言葉がアキの頭に響く。普段では滅多にない反応が立て続けに返ってきて、アキは早くなる鼓動を抑えることができない。それだから、自分の腰の横に手を置かれた時も、ウキツの顔が近付くのも、自分の身に起こったことだと気づいたのは唇がはなれた後だった。
「……お酒くさい」 「こら。最後まで大人しくしてりゃそれなりなのに。……嫌がってるようには見えなかったけどな」 「嫌じゃ、ないですから」
そう言ってアキが見上げると、ウキツはう、と声を詰まらせたあと、照れ隠しのようにアキの額に唇をあてた。
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