テーブルの上に見覚えのあるカチューシャが置かれている。それはガイが今まで公爵家や城でよく目にしてきたメイドたちが着けていたものと同じ形をしていた。しかし、ここはバチカルを遠く離れた一介の宿屋である。それを本職にしている者が置き忘れた物とは考えにくい。
「ティアのか?」
彼女はあの衣装を随分と気に入っていたようだし、時々身に着けている所を見るのできっと彼女の物だろう。届けた方がいいだろうかと思い手に取ってみる。
「メイドねぇ……あれ程もう見飽きたって言ってたのにな」
ガイが長年仕えて来た男、ルークは軟禁生活で屋敷の中の事しか知らないでいた。一度、そんなルークにこういった衣装は世の男の浪漫なのだと言ったら、メイド服以外の女性の方が珍しいではないかと一蹴されたのを覚えている。ところがどういう訳か、これを身に着けたティアを見たルークはまんざらでもない様子だった。恐怖症もあって、直接ガイからティアに渡す事はできそうにないし、ルークに代わりに渡してもらうよう頼んでみるか。そう思い踵を返したところで人の気配を感じ、そちらの方を見た。どうやら隣の部屋には先客がいたようだ。開いた扉から中を覗き見ると、鏡の前で身支度を整えている人物が目に入った。その人物と言うのは女性で、ガイが今手に持っているカチューシャの持ち主だったらしい。メイド服を身にまとっている。そこまでは良い。しかし、その服を身にまとう人物には問題があった。
「なっ……!」
驚きで声も出ない。今まさに、ガイの頭の中をさまざまな想いが駆け巡っている。
「なにしてるんだ……」
茫然としながら呟くと、その声に気付いた彼女がガイを見て駆け寄ってくる。手を伸ばしてきたので慌ててのけぞると、ナタリアは心外だと言う表情でこちらを見た。
「恐怖症が再発でもしましたの?」
再発以前にまだ治ったわけではない。以前よりは大分良くなったものの、女性に近づく時点で自分の心にどれだけ余裕があるのかも大きく関係してくる。そして今は思考がまとまっていない。余裕がないのだ。なぜなら、この状況はどう見てもおかしい。落ち着けと言われても無理があった。何をどうすれば一国の姫であるナタリアがメイド服を着ることになるのだ。
「これが無いから物足りない気がしたのですわ」
混乱するガイをよそに、ナタリアはガイの手からカチューシャを取って鏡へ戻った。身につけると、それを様々な角度から確認して、ガイの元へ戻ってくる。
「どうです?」
「どうですと言われましても……」
可愛いか可愛くないかと問われれば文句無しに可愛い。メイド服を着ていながらも彼女本来の気品の良さは残っており、それが不思議でとても綺麗だった。そうではあるのだが、これは似合っていると褒めていいものであろうか。
「似合いませんか?」
「君は似合っていると言われたら嬉しいかい?」
「うれしいです」
「それなら……似合ってるよ」
ガイの回答が悩んだ末のものだと言う事を知らないナタリアは途端に不満顔になる。
「なんです、今のは?似合っていないものを無理に褒めろとは言っていません!」
「違う、誤解だ。話を聞けって」
「何が違うのです」
腕組みをし、ナタリアが覗き込んでくる。 弁解はさせてもらえるようだとほっと息をつく。怒り出した彼女を止めるのは難しいが、根が素直なので相手に悪気がないとわかれば許してくれる。そういう真っ直ぐな娘だ。壁に寄りかかり、正面に立つ彼女と同じ高さに視線を合わせる。
「いいかい?君はキムラスカの王女だ。メイドって言うのは君の世話をする者だろう?彼女たちと君とは身分が違う。お姫様にメイドの格好が似合うだなんて、君を貶すことにもなりかねない」
「……まあ。そんな風には考えてもいませんでしたわ。でも、そうですわよね。あなたが女性を不快にさせるような言い方をするとは思えませんし」
「怒りは収まった?」
「ええ。私の思慮がたりませんでしたわ。ごめんなさい」
申し訳なさそうにしながら、ナタリアはガイに並んで壁に背をもたれる。正面にいた時より少し距離が離れてしまったので、ガイの方から近づき手をとると、ナタリアが一瞬こちらを見て、嬉しそうに笑顔をつくった。
「じゃあ今度はこっちに説明してね。どうしてそんな格好を?」
聞くと、答えるべきか否かしばらく悩む様子を見せたが、隠す必要はないと言う結論に至ったようだ。それでも視線をそらし、渋々と言った様子で答える。
「これは……ルークは私がこうすればあなたが喜ぶと言っていたのですけど、さっぱり意味がわからなかったので、あなたに見てもらえばわかると思ったのです」
なるほど、全てはルークの差し金だったのだ。けれども、何を目的にそんなことを、と考える。もしや、ルークもいつかの会話を記憶していて、あの時ガイが言った事を理解した同志であるという表明であろうか。あいつがそんな昔の事を覚えていたのは驚きだが、男とはそう言う部分で妙な仲間意識を持つ生き物である。だとしたら、その計らいを無下にすることはできまい。友人はこのチャンスを活かせと言っている。考え込んでしまったガイを不思議に思ったのか、ナタリアはいつの間にか握っていた手にもう片方の手を添え、ガイの顔を窺っていた。相当な至近距離だ。ここまで近いと自然と手も出てしまうものだ。否、ここで出たのは唇だが。不意打ちをくらった、とナタリアが赤面している。きっと文句を言おうとしているんだろうなと思ってガイが笑うと、ナタリアは出しかけていた言葉を飲み込み、そっぽを向くにとどまった。背を向けられてしまったので、今度は後ろから抱き付いてみる。
「つまり、俺のために着てくれたって理解していいのかい?」
「そのつもりでしたけれど」
自然と彼女の耳元に近い位置で話す事になるのだが、この位置からならば、彼女がどんなに隠そうとも耳まで真っ赤になっているのがよくわかる。
「じゃあ、了承済みってことなのかな」
ガイの言葉の意図がわからないのか、ナタリアは首をかしげガイの方を見ようとする。
「お願い聞いてくれる?ってこと」
「ええ。何かあるのなら聞きますわ」
きっとわかってないのだろうなと思いながらも、彼女に正面を向かせ、肩に手を置く。さてこれから、と言う所で、考え込んでいたナタリアが思いついた、と言う顔をしてガイを見た。
「喉が渇いたのでしょう。紅茶でも淹れましょうか?」
どう言う思考回路で紅茶に辿りついたのか知らないが、一気に気が抜けた。いいや、彼女は悪くない。彼女のそう言う所もガイにはいとおしく見えてしょうがないのだ。ただ、ガイが思案していたのはそういう可愛らしいことでは無く、どちらかと言うともう少し色事に近かったのだが。彼女がガイを心底信頼しきった無垢な笑顔を見せるので、まあ良いかと言う気になってしまう。
「身に余る光栄です」
「では、淹れてきます。待っていてくださいね」
ガイの腕を離れカップを用意するナタリアを横目に見る。友人には、直々にお茶を淹れてもらえる人間の方がある意味ではそう多く存在しないだろうと大目に見てもらうしかない。後悔が無いわけでもないが、これからこんな機会がまた来ないとも言い切れないのだし。
「ナタリア。」
「はい?」
「それ、また頼んだら着てくれる?」
「かまいませんわよ。気に入りました?」
「ああ。もう、とても」
とりあえずは次の機会までお預けと言う事で。
|